トップ > コラム > 【日本をつくった名建築 第4回】日本銀行本店はなぜ「円」の形に見える?明治の金融建築を読み解く

【日本をつくった名建築 第4回】日本銀行本店はなぜ「円」の形に見える?明治の金融建築を読み解く

2026/10/12
物件・エリア紹介

東京・日本橋。

高層ビルが立ち並ぶ都心の一角に、周囲とは明らかに雰囲気の違う巨大な石造建築がある。

日本銀行本店本館である。

設計したのは、第1回で取り上げた東京駅と同じ、

辰野金吾。

本館は1896年に完成し、130年近く経った現在も日本の中央銀行を象徴する建物として残っている。1974年には国の重要文化財に指定された。文化遺産オンライン

そして、この建物には有名な話がある。

航空写真などで上空から眺めると、建物の平面が漢字の、

「円」

のように見えるのである。

日本のお金を支える中央銀行が「円」の形をしている。

いかにも狙ったデザインのように思える。

しかし、この話には意外な事実がある。

日本銀行への取材では、設計者の辰野金吾が意図的に「円」の字にしたことを示す資料は確認できず、当時の銀行券では「円」ではなく旧字体の「圓」が使われていたことなどから、偶然である可能性が高いとされている。関東大震災によって当時の資料の一部が焼失しているため、完全に断定できるものでもない。デイリースポーツ

では、日本銀行本店はなぜこのような形になり、なぜ日本橋につくられたのだろうか。

そこには、明治政府が近代国家をつくろうとした時代の金融、建築、都市計画が詰まっている。

日本銀行ができたのは1882年

日本銀行が開業したのは、

1882年10月10日。

しかし、最初から現在の日本橋本石町に本店があったわけではない。

最初の店舗は現在の日本橋箱崎町、当時の永代橋付近にあった。

建物は新築ではなく、北海道開拓使が使っていた「物産売捌所」を利用したものだった。

設計者は、日本の近代建築教育にも大きな影響を与えたイギリス人建築家、

ジョサイア・コンドル

である。日本銀行

ところが、中央銀行として業務を始めると、この建物ではすぐに手狭になった。

さらに問題だったのが場所である。

当時の金融・商業の中心から少し離れていた。

そこで開業した翌年には、すでに新しい本店を建設する方針が決められた。日本銀行

なぜ移転先は日本橋だったのか?

新しい本店が選んだ場所が、

日本橋本石町

である。

現在も日本銀行本店がある場所だ。

これには明確な理由があった。

当時の日本橋は、東京を代表する商業・金融の中心地だった。

1880年当時、東京市内にあった銀行24行のうち、

20行が日本橋区

に集中していたという。

江戸時代から両替商が集まり、人と物が盛んに行き交っていた地域だったのである。日本銀行

現在の金融街というと丸の内・大手町を想像しやすいが、明治初期の金融の中心は、日本橋との結び付きが非常に強かった。

すぐ近くには大蔵省と印刷局もあった

立地上の理由は金融機関だけではない。

常盤橋を渡った大手町側には、

大蔵省

印刷局

などの官庁があった。

中央銀行にとって政府との連絡は極めて重要である。

金融機関が集まる日本橋と、政府機関がある大手町。

その間に位置する日本橋本石町は、中央銀行を置く場所として非常に合理的だった。日本銀行

建築資材を運ぶ「川」も重要だった

現在の東京では、建設資材は大型トラックで運ぶのが普通である。

しかし明治時代は違う。

大量の石材やレンガなどを輸送するうえで、

水運

が極めて重要だった。

日本橋は日本橋川などを利用した水運に優れ、江戸時代から物流の拠点でもあった。

日本銀行自身も、本館建設の際に建築資材を運べる水運の利便性が、日本橋を選んだ理由の一つだったとしている。日本銀行

つまり日本銀行本店の立地には、

金融

行政

物流

という3つの条件がそろっていたのである。

実はその土地には、もともと「金座」があった

さらに面白い偶然がある。

江戸時代、現在の日本銀行本店がある場所には、

金座

が置かれていた。

金座とは、江戸幕府の管理のもとで小判などの金貨を製造していた施設である。日本銀行マネタリーベースモニタリングシステム

江戸時代には金貨をつくる場所。

明治以降は日本の中央銀行。

時代も制度もまったく異なるが、

日本のお金に関わる土地

という役割が何百年にもわたって続いていることになる。

偶然とはいえ、非常に象徴的な場所である。

設計を任された辰野金吾

新本店の設計を任されたのが、

辰野金吾

である。

辰野はジョサイア・コンドルに建築を学び、その後イギリスへ留学。

帰国後は帝国大学工科大学、現在の東京大学工学部で教授を務め、日本近代建築の中心人物となった。

後に、

東京駅

日本銀行大阪支店

日本銀行京都支店

など、多くの銀行・公共建築を手掛ける。

その辰野にとって、日本銀行本店本館は初期の代表作であり、日本銀行自身も、

日本人建築家が手掛けた最初の国家的近代建築

と位置付けている。日本銀行

辰野金吾はヨーロッパの銀行を研究した

中央銀行という建物を、日本人建築家が一から設計する。

当時の日本には参考になる建築がほとんどなかった。

そこで辰野金吾は欧米へ渡り、銀行建築を調査した。

日本銀行によれば、ベルギー国立銀行の設計者アンリ・ベイヤールに学び、イングランド銀行も繰り返し訪問。

ロンドン滞在中に日本銀行本店の設計原案をつくったとされている。日本銀行

つまり日本銀行本店は、

西洋の金融建築を研究し、それを日本人建築家が日本で実現した

建築だったのである。

1890年着工、完成まで約6年半

本館の建設が始まったのは、

1890年9月。

完成したのは、

1896年2月。

同年3月に落成し、4月に旧店舗から本店機能が移された。日本銀行

工事には約6年半が費やされた。

現在の感覚では3階建ての建物に6年以上というのは長く感じるかもしれない。

しかし、これは普通の3階建て建物ではない。

日本が初めて本格的に造る国家レベルの金融建築であり、

巨大な石材

レンガ

金庫

最新設備

を組み込んだ大工事だった。

建設費は当初予算を大幅に超えた

当初の建設予算は、

80万円

だった。

ところが工事中の物価上昇や追加工事などによって、最終的には約、

112万円

まで膨らんだ。

当初予算を約4割上回ったことになる。日本銀行

特に中央銀行として重要だったのが、

金庫の安全性

である。

当時の資料でも、新本店建設に際して金庫を極めて堅牢にする必要性が強調され、模型まで製作して政府に説明していたことが残されている。日本銀行マネタリーベースモニタリングシステム

日本銀行は単なるオフィスではない。

大量の現金や金融資産を扱う施設である。

そのため、建物そのものに高い安全性が要求されたのである。

建物は石造に見えるが、中にはレンガがある

日本銀行本店を見ると、

「巨大な石造建築」

に見える。

実際には、

石積みレンガ造

である。

外壁は石材、その内側にレンガを積み上げた構造になっている。

地下階と1階には花崗岩。

2階以上には安山岩が使われている。日本銀行

文化庁によれば、

地上3階

地下1階

建築面積約2,685㎡

という規模である。文化遺産オンライン

外から見える重厚な石壁は装飾だけではない。

中央銀行としての防火・防犯・耐久性を考えた構造でもあった。

なぜ銀行建築はこんなに重々しいのか?

日本銀行本店を見ると、普通のオフィスビルとはまったく印象が違う。

大きな石壁。

太い柱。

左右対称の構成。

高い基壇。

中央のドーム。

「簡単には動かない」という印象を受ける建物である。

日本銀行によれば、外観には古典主義建築が採用され、

秩序と威厳

が表現されている。

中庭1階にはドリス式の柱、2~3階を貫く部分にはコリント式の双柱が使われている。日本銀行

これは銀行という建築を考えるうえで非常に重要である。

銀行は「信用」を売る施設だった

銀行が扱う商品は特殊である。

自動車会社なら車。

百貨店なら商品。

工場なら製品。

しかし銀行が扱う最大の商品は、

信用

である。

「この銀行へお金を預けても大丈夫だ」

「この銀行は簡単にはなくならない」

と思ってもらわなければならない。

特に明治時代、日本銀行は誕生したばかりの中央銀行だった。

国民にとって中央銀行という仕組み自体が新しい。

そこで建物には、

安定している

堅牢である

国家を代表する

という印象が求められたと考えられる。

建物そのものが、金融機関のブランドを表現する広告塔でもあったのである。

現代の銀行店舗とは正反対

現在の銀行店舗では、

ガラス張り

明るい入口

入りやすい空間

が重視されることが多い。

しかし明治時代の銀行建築では逆だった。

巨大な石の壁。

太い柱。

重い扉。

近寄りがたいほどの威厳。

それこそが、

「ここなら財産を任せられる」

という安心感につながった。

当時の金融建築では、重厚感そのものが企業価値の一部だったのである。

当時最先端の設備も導入されていた

外観は古典的だが、中身は当時としては最先端だった。

日本銀行によると、本館には、

エレベーター

水洗便所

防火シャッター

スチールサッシ

などが導入された。

明治20年代の日本では、まだ非常に珍しい設備だった。日本銀行

つまり日本銀行は、

外観では歴史と威厳を表現し、

内部では最新技術を導入する

という建築だった。

地下金庫には明治時代の姿が残る

現在でも、本館地下にはかつての金庫が残っている。

地下金庫では、

白い釉薬レンガの壁

金庫扉

アスファルト床

など、明治時代の姿をかなり残している。

しかも関東大震災でも大きな被害を免れた。日本銀行

現代の銀行であれば巨大なデータセンターやセキュリティシステムが重要になる。

しかし当時の銀行では、

物理的に現金を守る巨大金庫

そのものが極めて重要な設備だった。

では本当に上から見ると「円」なのか?

そして有名なのが、日本銀行本店本館の平面形である。

航空写真などで上空から見ると、

「円」

という漢字に似ている。

中庭を囲むように建物が配置され、中央部と外周の構成が「円」の文字を思わせる。

そのため、

「日本のお金を扱う建物だから、辰野金吾が円の字にした」

という話が広く知られるようになった。

確かに、あまりにも出来すぎた形である。

しかし「辰野金吾の遊び心」とは断定できない

ここは正確に区別しておきたい。

日本銀行への取材によれば、

意図的に「円」の文字をデザインしたことを示す資料は確認されていない。

さらに1896年当時、銀行券で使われていた表記は「円」ではなく旧字体の、

「圓」

だった。

日本銀行側は、こうした事情から、意図的に「円」の字型にしたとは考えにくいとしている。デイリースポーツ

つまり、

「円に見える」ことは事実

だが、

「円を狙って設計した」と断定することはできない

のである。

SEO記事などでは両者を混同しないことが重要である。

真相が分からない理由には関東大震災もある

では設計資料を調べれば分かるのではないか。

ところが日本銀行は1923年、

関東大震災

で大きな被害を受けた。

建物自体は地震で倒壊しなかったものの、周辺から火災が延焼。

中央のドームや内部の一部、資料類などが焼失した。日本銀行

日本銀行に関する歴史資料も失われている。

そのため「円形に見える平面を辰野が意図したのか」という疑問についても、決定的な資料を見つけることが難しくなっているのである。デイリースポーツ

関東大震災でも建物そのものは倒れなかった

1923年9月1日。

関東大震災が東京を襲った。

日本銀行本館も被災した。

しかし、この巨大な石積みレンガ造建築は、

地震そのものでは倒壊しなかった。

問題になったのは、その後に広がった火災だった。

周辺から延焼し、3階の大部分や2階・1階の一部が焼失。

中央のドームなども被害を受けた。日本銀行

それでも建物の主要構造は残った。

しかも日本銀行は営業を止めなかった

さらに驚くのは、その後である。

本館は火災によって大きな被害を受けたにもかかわらず、日本銀行は震災直後も、

1営業日も休まず業務を継続した。

中央銀行が止まれば、金融システム全体に影響する。

建物の強さは単なる文化財としての問題ではない。

国家の金融インフラを止めないための性能

でもあった。日本銀行

辰野金吾は「丈夫な建物」で知られていた

辰野金吾は、非常に堅牢な設計を好んだ建築家として知られる。

2026年に日本銀行広報誌のインタビューに登場した建築史家・藤森照信氏も、辰野が頑丈な設計をすることから、同級生に、

「辰野堅固」

と呼ばれていたという逸話を紹介している。日本銀行

少し冗談めいた呼び名だが、日本銀行本店が関東大震災を乗り越えたことを考えると、非常に象徴的である。

1974年、国の重要文化財へ

日本銀行本店本館は、

1974年2月5日

国の重要文化財に指定された。

文化庁は、

辰野金吾の代表作

現存する明治洋風建築の中でも極めて重要

として評価している。文化遺産オンライン

中央銀行の業務施設でありながら、同時に日本近代建築を代表する文化財でもある。

ここで難しい問題が生まれる。

文化財を守りながら、中央銀行として使い続けなければならない。

のである。

築120年を超えても現役

普通のオフィスビルであれば、築100年を超える前に建て替えられるケースが多い。

ところが日本銀行本店本館は、現在も残されている。

もちろん1896年の状態をそのまま使っているわけではない。

時代に合わせて、

設備更新

修復

耐震補強

が行われてきた。

中でも大規模だったのが、

免震化工事

である。

建物そのものを「免震化」した

東日本大震災を契機として、日本銀行は首都直下地震などへの備えをさらに強化することになった。

2016年10月から、本館の免震化工事が開始された。日本銀行

非常に難しい工事である。

文化財である外観を壊すわけにはいかない。

そこで既存建物の下部へ免震装置を組み込み、

建物全体をそのまま免震化する

という方法が採られた。

日本銀行によれば、本館地下には100個を超える免震装置が設置され、約7万5,000トンの建物を支える計画だった。日本銀行

外から見ると明治時代の銀行。

しかしその地下には、現代の巨大な免震設備が存在する。

東京駅にも通じる、

「歴史建築の外観を守りながら、中身を現代化する」

という発想である。

日本銀行本店には「建て替えない価値」がある

不動産だけを効率で考えれば、日本橋の一等地にある3階建ての巨大な建物は効率がよいとはいえない。

周囲には高層ビルが立ち並んでいる。

同じ土地に高層オフィスビルを建てれば、はるかに多くの床面積を確保できる。

それでも本館は残されている。

なぜなら、この建物の場合、

古いことそのものが価値

になっているからである。

金融機関では「歴史」が信用になる

企業にとって、創業年数や歴史はブランド資産になり得る。

特に銀行の場合、

「長期間存在し続けている」

という事実は、

安定性

信用

継続性

を象徴する。

1896年の本館が現在まで残っていることそのものが、日本銀行という組織の歴史を視覚化しているのである。

新しい建物に建て替えれば設備効率は上げられる。

しかし、

130年近い歴史そのものは新築では再現できない。

これが歴史建築特有の不動産価値である。

東京駅と日本銀行に共通する辰野金吾の仕事

第1回で取り上げた東京駅と日本銀行本店。

どちらも辰野金吾の代表作である。

しかし印象はかなり異なる。

東京駅は、

赤レンガと白い石による華やかな外観。

日本銀行は、

巨大な石壁による重厚な外観。

建物の用途に合わせ、デザインが変えられているのである。

東京駅に必要だったのは、

帝都東京の玄関としての華やかさ。

日本銀行に必要だったのは、

国家の金融を支える安定感と信用。

建築は単に美しい形をつくるものではない。

その建物が何をする場所なのかを外観で表現する

という役割もある。

「円」の字より面白い日本銀行の本質

日本銀行本店について最も知られている話は、

「上から見ると円の形」

かもしれない。

確かに面白い。

しかし建築として見ると、それ以上に興味深い要素がある。

江戸時代の金座跡に建つ。

明治日本の中央銀行になる。

金融街・日本橋に立地する。

ヨーロッパの銀行建築を研究した辰野金吾が設計する。

関東大震災を耐える。

重要文化財になる。

そして築120年以上で建物全体を免震化する。

一つの建物の中に、

江戸・明治・大正・昭和・平成・令和

という東京の歴史が重なっているのである。

まとめ

日本銀行本店本館は、

1896年

東京・日本橋本石町に完成した。

設計者は、後に東京駅も手掛ける、

辰野金吾。

石積みレンガ造、地上3階・地下1階の巨大な銀行建築で、古典主義を基調とした重厚な外観を持つ。1974年には国の重要文化財に指定された。文化遺産オンライン

日本橋が選ばれた背景には、

金融機関が集中していたこと

大蔵省や印刷局に近かったこと

水運による建築資材輸送が容易だったこと

などがある。

さらに江戸時代には、この場所そのものが小判などを製造した、

「金座」

だった。日本銀行

そして有名なのが、

上空から見ると「円」の字に見える

という話である。

ただし辰野金吾が意図的に「円」の形へ設計したことを証明する資料は確認されておらず、日本銀行側も偶然である可能性が高いとしている。デイリースポーツ

しかし、日本銀行本店の本当の面白さはそこだけではない。

建物は、

中央銀行に必要な「信用」「安定」「堅牢さ」を建築として表現している。

関東大震災でも構造体は倒壊せず、その後の火災被害を受けながらも金融業務を継続した。日本銀行

そして築120年以上を経た現在は、建物の下へ100個を超える免震装置を組み込むなど、外観を保存しながら内部の安全性を現代化している。日本銀行

日本銀行本店は、

「古い建物だから残っている」のではない。

歴史そのものが中央銀行の信用や日本橋という街の価値になっているからこそ、残され、使い続けられているのである。

次回は、

【日本をつくった名建築 第5回】国会議事堂は完成まで17年?日本の政治を支える巨大建築の秘密

をテーマに、なぜ完成まで長い年月がかかったのか、中央塔・国産石材・左右に分かれた衆議院と参議院、そしてなぜ現在の永田町に建てられたのかを掘り下げる。

引用元・参考元

あなたにオススメの記事