東京の玄関口として、毎日多くの人が行き交う東京駅。
新幹線や在来線が集まる巨大ターミナルでありながら、丸の内側に立つと目に入るのは、近代的なガラス張りの駅ビルではない。
そこにあるのは、長さ約335mにも及ぶ赤レンガの巨大駅舎である。
東京駅丸の内駅舎が開業したのは1914年12月20日。2026年現在、すでに110年以上が経過している。それでも東京の一等地で現役の駅舎として使われ続けている。JR East
しかも、現在見ている東京駅は、単に「古い建物がそのまま残っている」わけではない。
関東大震災を経験し、太平洋戦争の空襲で大きく焼失し、戦後には2階建てへ姿を変え、その後2012年に創建時の3階建てへ復原された。
さらに注目したいのが、
「歴史的建築物を保存すると、その土地を十分に開発できない」
という都市開発上の問題を、周辺の超高層ビル開発と組み合わせて解決したことである。
東京駅は、単なる鉄道駅ではない。
日本の近代化、戦争、高度成長、文化財保存、そして現代の不動産開発までを一つの建物で見ることができる、極めて珍しい建築なのである。
東京駅が誕生する前、東京には「中央駅」がなかった
現在では全国各地から鉄道が東京駅へ集まるのが当たり前だが、明治時代の東京では事情が違っていた。
鉄道は方面ごとに別々のターミナルへ発着していたため、それらを結び付ける都市鉄道網と、その中心となる**「中央停車場」**の建設が計画された。
東京ステーションギャラリーによると、市街地の鉄道を高架化し、そのネットワークの中枢に各方面のターミナルを統合する中央停車場を設ける計画が進められたという。新興再生可能エネルギー財団
東京駅は最初から「東京を代表する巨大駅」として計画されたのである。
当初、この中央停車場の設計にはドイツ人技師フランツ・バルツァーが関わり、和風建築を取り入れた案も提示した。
しかし、その案は採用されなかった。
最終的に駅舎設計を任されたのが、日本近代建築を代表する建築家、
辰野金吾
である。
東京駅を設計した辰野金吾とは?
辰野金吾は1854年生まれ。
工部大学校を首席で卒業し、イギリスへ留学した、日本の第一世代ともいえる本格的な建築家である。
東京駅だけでなく、
日本銀行本店本館
旧日本銀行京都支店
旧盛岡銀行本店
など、日本の近代化を象徴する建築を数多く手掛けた。
東京駅は、その辰野金吾の代表作であると同時に、文化庁も**「辰野金吾の集大成となる作品」**として高く評価している。新興再生可能エネルギー財団
東京駅の設計には、辰野が留学したイギリスの建築から強い影響を受けた意匠が採用された。
文化庁は東京駅丸ノ内本屋の建築様式を、
「辰野式フリー・クラシック」
と説明している。文化遺産オンライン
このデザインこそ、現在の東京駅を象徴する「赤レンガ」へとつながっている。
東京駅はなぜ赤レンガなのか?
東京駅を見ると最も印象的なのが、赤い外壁である。
では、なぜ東京駅は赤レンガなのだろうか。
「東京駅を赤くする」という単純な色彩計画があったというより、辰野金吾が採用した西洋建築様式と、当時の建築技術の結果として赤レンガの姿になったと考える方が分かりやすい。
東京駅は創建当時、
鉄骨煉瓦造3階建て
であった。
内部の構造そのものにも大量のレンガを使用し、その外側には見た目を整えるための「化粧レンガ」が張られている。新興再生可能エネルギー財団
創建時に使用されたレンガは驚くほど多い。
東京ステーションギャラリーによると、
構造レンガ:約833万個
外壁用の化粧レンガ:約93万個
である。新興再生可能エネルギー財団
合わせると900万個を超える。
東京駅は「レンガ風の外壁を付けた建物」ではない。
文字通り、巨大なレンガ建築なのである。
外から見える赤レンガは「化粧レンガ」
東京駅には2種類のレンガがある。
一つは建物を支える、
構造レンガ
である。
もう一つが外壁を美しく見せる、
化粧レンガ
である。
現在も東京ステーションギャラリー内部では、創建時から残る構造レンガや鉄骨を見ることができる。新興再生可能エネルギー財団
つまり東京駅の赤レンガは、単なる装飾ではなく、
構造と意匠の両方にレンガを大量使用した時代の建築
を今に伝えているのである。
なぜ東京駅はこんなに横に長いのか?
丸の内側から東京駅を見ると、横方向へ延々と続いている。
創建時の駅舎は、
長さ約335m
にも及んだ。
しかも地上3階建てで、南北に大きなドームを持っていた。文化遺産オンライン
建設当初の配置も特徴的である。
南側に乗車口。
北側に降車口。
そして中央には、
皇室専用の玄関
が設けられた。
現在の駅のように「どこからでも自由に出入りする」発想とは少し異なり、駅そのものに明確な動線と格式が与えられていたのである。
東京駅が単なる交通施設ではなく、
国家の首都を代表する中央駅
として建設されたことが分かる。
東京駅は皇居の正面に造られた
東京駅の立地にも意味がある。
丸の内中央口から外へ出ると、その正面には皇居へ向かう行幸通りが延びている。
文化庁も、東京駅丸ノ内本屋について、
皇居から東へ一直線に延びる行幸通りの正面
に位置することを建築的な特徴として挙げている。文化遺産オンライン
つまり東京駅は、
鉄道の利便性だけで場所が決められたわけではない。
「帝都東京の玄関口」としての都市景観まで考えられていたのである。
1908年着工、6年以上かけて完成
東京駅の工事が始まったのは1908年3月25日。
そして1914年12月に完成し、同年12月20日に東京駅として営業を開始した。JR East
現在の超高層ビル建設と比較しても、非常に長い工期である。
しかし考えてみれば当然でもある。
約335mもの巨大駅舎。
900万個を超えるレンガ。
複雑な鉄骨。
南北のドーム。
そして営業中の鉄道ネットワークの中核施設。
日本が近代国家へ移行するなかで造られた、文字通り国家規模の建築プロジェクトだったのである。
1923年、関東大震災でも大きな被害を受けなかった
東京駅開業から9年後。
1923年9月1日、関東大震災が発生した。
東京の多くの建物が倒壊・焼失するなか、東京駅丸の内駅舎は、その堅牢な構造によって大きな被害を免れた。新興再生可能エネルギー財団
これは東京駅の建築史を考えるうえで重要な出来事である。
明治・大正期のレンガ建築というと、
「地震に弱そう」
という印象を持つかもしれない。
しかし東京駅は鉄骨とレンガを組み合わせた巨大建築であり、関東大震災を生き延びた。
ところが、その東京駅を大きく変える出来事が22年後に起きる。
東京駅を変えた1945年の空襲
1945年5月25日。
東京駅は空襲を受けた。
火災によって、
南北のドーム
屋根
内装
3階部分
などが大きく焼失した。新興再生可能エネルギー財団
堅牢なレンガ壁の多くは残ったものの、創建時の壮麗な姿は失われたのである。
戦争が終わっても、東京駅を元通りに復旧する余裕はなかった。
資材も資金も不足していた。
そして何より、鉄道は一刻も早く動かさなければならない。
そのため戦後の復旧では、創建時の姿を完全に戻すのではなく、
3階部分を撤去して2階建てとする
という判断が行われた。
ドームも丸い形から八角形へ
現在の東京駅を象徴する南北のドームも、戦後には姿を変えた。
創建時のドーム屋根は失われ、
八角形の屋根
へ変更された。
内側の天井も、物資不足のなかでジュラルミンなどを利用して造られた簡素なものとなった。新興再生可能エネルギー財団
1947年、戦災復興工事が完成。
東京駅は再び本格的に使える状態となった。
興味深いのは、この戦後の姿が当初から長期使用を前提にしていたわけではなかったことである。
東京ステーションギャラリーによると、戦災復興工事は当初4~5年程度をもたせることを想定していたとみられる。
ところが結果的には、
約60年間
その姿のまま使われ続けた。新興再生可能エネルギー財団
私たちが「昔の東京駅」と思っていた姿は、実は戦後型だった
ここは東京駅の面白いところである。
現在50代、60代以上の人の記憶にある東京駅は、創建時の東京駅ではない。
戦後に造られた、
2階建て
八角形屋根
の東京駅である。
それがあまりにも長期間使われたため、その姿自体が東京駅として定着していた。
しかし本来の東京駅は、
3階建てで、南北に大きなドームを持つ駅舎
だったのである。
2003年、東京駅が重要文化財に
東京駅丸ノ内本屋は2003年5月30日、国の重要文化財に指定された。
文化庁は、
「意匠的に優秀」
「歴史的価値が高い」
建築として評価している。国指定文化財データベース
鉄道駅は本来、利用者数の増加や設備更新に合わせて改築される。
まして東京駅は日本でも屈指の一等地にある。
通常の不動産開発だけを考えれば、古い2~3階建て建物を残すより、高層ビルへ建て替えた方が土地を有効活用できる。
しかし東京駅では逆の選択が行われた。
壊すのではなく、残す。
そしてさらに、
創建時の姿へ戻す。
という巨大プロジェクトが始まったのである。
2007年、東京駅の保存・復原工事が始まる
東京駅丸の内駅舎の保存・復原工事は2007年に始まり、2012年に完成した。
ここでJR東日本が使っている表現は、
「復原」
である。
既存の建物を可能な限り残しながら、戦災によって失われた3階部分やドームなどを創建時の姿へ戻していく工事である。JR East
単純な建て替えではない。
創建時のレンガ壁など、残せる部分を保存し、
失われた部分だけを復原する。
そのため現在の東京駅には、
大正時代から残る部分
と、
2012年に復原された部分
が共存している。
ドーム天井には干支がいる
復原された南北ドーム内部も見どころの一つである。
天井付近には、
鷲
花飾り
兜
動輪
などの装飾が施されている。
さらに壁面には干支のレリーフがある。
ただし12支すべてではない。
丑・寅・辰・巳・未・申・戌・亥の8支が配置されており、東西南北に当たる子・卯・午・酉は配置されていない。JR East
東京駅を利用することがあれば、丸の内南口・北口のドームを見上げるだけでも、建築を見る楽しみが増える。
見た目だけでなく「免震」まで大改造された
保存・復原工事は、単に外観を昔に戻しただけではない。
100年以上使い続けるため、建物そのものの耐震性能も大幅に向上させている。
JR東日本によると、復原工事では大規模な免震レトロフィット工法が採用された。
驚くのが基礎部分である。
創建時から駅舎を支えていた約、
1万1,000本の松杭
を撤去。
その下に新たな地下空間と免震層を造り、
約350台のアイソレータ
約160台のオイルダンパー
を設置した。JR East
外から見れば100年前の赤レンガ駅舎。
しかし地下では、現代の免震技術によって支えられている。
これこそ歴史建築を現役で使い続けるための技術である。
しかし東京駅には大きな不動産問題があった
ここからが、東京駅のもう一つ面白いところである。
東京駅の土地は日本でも屈指の一等地である。
通常であれば、その土地には都市計画上認められた一定の床面積まで建物を建てることができる。
しかし丸の内駅舎を低層のまま保存すると、
本来建てられるはずの床面積を使えない。
つまり不動産として見れば、大量の「未利用容積」が発生する。
文化財を保存することは都市景観上は価値がある一方、土地所有者にとっては開発可能な床面積を失うことにもなる。
そこで東京駅では非常に興味深い方法が採用された。
東京駅の「空」を周りのビルへ移した
利用されたのが、
特例容積率適用区域制度
である。
簡単にいえば、
東京駅で使わない容積を、周辺の別の敷地へ移す
という仕組みである。
一般には「空中権の移転」などと呼ばれることもある。
JR東日本は、東京駅丸の内駅舎の未利用容積を周辺の開発へ移転し、その仕組みを活用して駅舎復原費用を捻出するとともに、高層ビル開発を実現したと説明している。JR East
代表例が、
グラントウキョウ ノースタワー
グラントウキョウ サウスタワー
などである。
「古い駅を壊して高層化」ではなかった
普通に考えれば、土地を高度利用する方法は簡単である。
古い東京駅を取り壊し、
その場所に巨大な高層駅ビルを建てればよい。
しかし東京駅では違った。
歴史的駅舎は低層のまま保存する。
その代わり、
使わない容積を周辺へ移し、周囲に高層ビルを建てる。
という方法を選んだ。
結果として現在の東京駅周辺を見ると、
中央には赤レンガ駅舎。
その背後や八重洲側には超高層ビル。
という独特の都市景観が生まれている。
これは、
「保存」と「開発」を対立させない都市開発
の代表的な事例といえる。
東京駅の保存が不動産価値を生んだ
古い建物を保存すると、
「土地を有効活用できない」
「収益性が落ちる」
と考えられがちである。
しかし東京駅を見ると、必ずしもそうではないことが分かる。
もし東京駅が一般的な高層駅ビルへ建て替えられていたら、現在の丸の内の景観は大きく違っていたはずである。
赤レンガ駅舎が存在することで、
丸の内駅前広場
行幸通り
周辺オフィス
ホテル
商業施設
などを含めた地域全体に、東京駅ならではの景観とブランドが形成されている。
建物単体の床面積を最大化するのではなく、
歴史建築を残すことでエリア全体の価値を高める。
これも不動産開発の一つの考え方である。
東京駅は「保存された博物館」ではない
歴史建築の保存というと、役割を終えた建物を資料館や観光施設として残すケースも多い。
しかし東京駅は違う。
現在も、
在来線
新幹線
地下鉄との乗り換え
ホテル
商業施設
美術館
などが集まる巨大ターミナルとして機能している。
つまり、
100年以上前の建築を保存しながら、現役の都市インフラとして使っている。
ここに東京駅の最大の価値がある。
100年前のレンガと現代の超高層ビルが共存する街
東京駅丸の内駅舎の正面に立って周囲を見渡すと、東京という街の歴史が一度に見えてくる。
目の前には1914年の赤レンガ駅舎。
地下には21世紀の免震技術。
その背後には超高層オフィスビル。
周辺では現在も大規模な再開発が続いている。
つまり東京駅は、
昔の姿をそのまま保存した場所ではない。
古い建築を残しながら、その周囲を変化させ続けてきた場所なのである。
東京駅から学べる「建物の価値」とは?
不動産の価値というと、
土地価格
床面積
築年数
賃料
利回り
など数字で評価することが多い。
しかし東京駅には、それだけでは説明できない価値がある。
築100年以上。
通常であれば「古い物件」と分類される年数である。
ところが東京駅の場合、その古さそのものが、
歴史
景観
ブランド
観光価値
へと変わっている。
建物は新しければ必ず価値が高く、古ければ必ず価値が低いというものではない。
適切に保存し、使い続け、その歴史を地域の魅力へ変えることができれば、
「古いこと」が価値になる場合もある。
東京駅はその象徴的な事例である。
まとめ
東京駅丸の内駅舎は、1914年12月20日に開業した。
設計したのは、日本の近代建築を代表する辰野金吾である。
創建時の駅舎は、
約335mの長さを持つ鉄骨煉瓦造3階建て
であり、構造レンガ約833万個、外壁用の化粧レンガ約93万個という巨大なレンガ建築だった。新興再生可能エネルギー財団
1923年の関東大震災では大きな被害を免れたが、1945年の空襲によって南北ドームや3階部分を焼失。
戦後は2階建て、八角形の屋根へ改修され、その姿で約60年間使用された。
2003年には国の重要文化財に指定。
2007年から保存・復原工事が始まり、2012年には創建時の3階建てとドームがよみがえった。国指定文化財データベース
そして東京駅のもう一つ重要な点が、
歴史建築の保存と大規模再開発を両立させたこと
である。
東京駅で使わない容積を周辺の高層ビルへ移転する仕組みを活用することで、赤レンガ駅舎を残しながら丸の内・八重洲エリアの高度利用を進めた。JR東日本によれば、その未利用容積の移転は駅舎復原費用の捻出にも活用された。JR East
つまり東京駅は、
「古い建物を残すか、新しい街をつくるか」
のどちらかを選んだのではない。
古い建物を残しながら、新しい街をつくった。
その考え方こそ、東京駅が100年以上にわたって東京の中心であり続ける理由の一つではないだろうか。
次回は、
【日本をつくった名建築 第2回】造幣局はなぜ大阪にある?明治政府がつくった近代産業の巨大拠点
をテーマに、日本の貨幣制度を支えた巨大工場が、なぜ東京ではなく大阪に造られたのかを掘り下げる。
引用元・参考元
- 文化庁「国指定文化財等データベース 東京駅丸ノ内本屋」 国指定文化財データベース
- 東京ステーションギャラリー「施設案内・東京駅丸の内駅舎の歴史」 新興再生可能エネルギー財団
- JR東日本「東京駅及び周辺の整備計画について」 JR East
- JR東日本「東京駅丸の内駅舎の保存・復原」 JR East
- JR東日本「東京駅丸の内駅舎保存・復原工事完成10年記念」 JR East
- JR東日本「不動産・開発戦略―東京駅の未利用容積移転」 JR East
- JR東日本「東京駅丸の内駅舎復原時の免震技術」 JR East


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