東京・永田町にそびえる国会議事堂。
中央にピラミッド型の巨大な塔があり、その左右に衆議院と参議院が対称的に配置されている。
テレビの政治ニュースではほぼ毎日のように映るため、日本人にとって最も見慣れた建築物の一つかもしれない。
しかし、この建物が完成するまでに、
約17年
もの歳月がかかったことはあまり知られていない。
着工したのは1920年1月。
完成したのは1936年11月である。
建築期間17年、工事に携わった人数は延べ約254万人。当時の建築費は約2,570万円に達した。 衆議院
しかも国会議事堂の計画自体は、1920年よりさらに数十年前から始まっている。
なぜこれほど完成まで時間がかかったのか。
なぜ現在の永田町に建てられたのか。
そして、中央塔や左右対称の巨大な石造風建築にはどのような意味があるのだろうか。
今の国会議事堂ができる前、「仮議事堂」が4つもあった
現在の国会議事堂は、実は帝国議会の歴史で最初に使われた議事堂ではない。
国立国会図書館によると、現在の本議事堂が完成するまでには、
4つの仮議事堂
が存在した。
東京に3棟、さらに日清戦争中には広島にも臨時の議事堂が造られている。 国立国会図書館
最初の帝国議会が開かれたのは1890年。
しかし、その時点では現在の国会議事堂は存在していなかった。
東京・内幸町に木造2階建ての仮議事堂を建て、そこで第1回帝国議会が開会したのである。 国立国会図書館
初代議事堂は、完成からわずか約2か月で焼失
1890年11月に完成した第一次仮議事堂。
ところが翌1891年1月、火災によって全焼してしまった。
完成からわずか約2か月である。 国立国会図書館
すぐに第二次仮議事堂が建設された。
こちらは30年以上使用されたものの、1925年、補修工事中の火災によって再び焼失。
その後、第三次仮議事堂が急いで建設され、現在の国会議事堂が1936年に完成するまで使用された。 国立国会図書館
つまり日本の議会は、半世紀近くにわたり、
「仮」の建物で運営されていた
ことになる。
本格的な議事堂計画は明治時代からあった
現在の永田町に本格的な議事堂を造る構想は、かなり早い時期から存在していた。
1887年には、外務大臣・井上馨が進めていた「官庁集中計画」の一環として、ドイツ人建築家ヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマンによる議事堂案が作成されている。
しかも建設予定地は、
現在の国会議事堂と同じ永田町1丁目
だった。 国立国会図書館
つまり国会議事堂は、
「後から偶然、永田町に建てられた」
わけではない。
明治時代からこの周辺を日本の政治・行政の中心にする構想が存在していたのである。
なぜ永田町だったのか?
明治政府は近代国家をつくるにあたり、中央官庁を一定の地域へ集める「官庁集中計画」を進めていた。
そのなかで国会議事堂の所在地として永田町が選ばれ、1887年4月には議事堂の位置が永田町に決まったとされる。 国立国会図書館
現在でも周辺には、
国会議事堂
首相官邸
内閣府
各省庁
政党本部
議員会館
などが集まっている。
「永田町」という地名そのものが日本政治を意味する言葉のように使われるのは、この長い都市形成の結果でもある。
建築物が一つできただけではない。
国会議事堂を中心として、日本の政治都市が形成された
のである。
当初は外国人建築家が議事堂を設計する予定だった
明治初期の日本では、本格的な西洋建築を設計できる日本人建築家がまだ少なかった。
そのため最初期の議事堂計画は、エンデとベックマンというドイツ人建築家が担っていた。
彼らが最初に提案したのは、当時ヨーロッパで流行していた、
ネオ・バロック様式
の巨大な議事堂である。
その後、和洋折衷の案も提示された。
しかし官庁集中計画そのものが予算不足や政治的事情などによって頓挫し、この議事堂案も実現しなかった。 国立国会図書館
最終的には「日本人が設計する」ことになった
その後、本格的な国会議事堂をどう設計するかをめぐって長い議論が続く。
1899年には、議事堂のデザインを国内から公募する方針が決められたものの、予算などの問題から実施されなかった。
その後も、
「設計競技を行うべきだ」
「専門家が直接設計する方がよい」
という議論が続いた。
建築家の辰野金吾も、設計競技実施を強く主張した人物の一人だった。 国立国会図書館
実際に設計競技が行われたのは、
1918年から1919年
である。
一等に選ばれたのは宮内省技手、
渡邊福三
の案だった。 国立国会図書館
ただし「1等作品」がそのまま国会議事堂になったわけではない
面白いのはここである。
設計競技で一等を取った渡邊福三案が、そのまま建設されたわけではない。
渡邊案の中央部分には、
ドーム型の屋根
があった。
ところが現在の国会議事堂にあるのは、誰もが知る、
ピラミッド型の中央塔
である。
国立国会図書館によれば、現在のピラミッド型屋根は、設計に参加した建築家、
吉武東里
による案とされている。 国立国会図書館
つまり国会議事堂は、
「コンペ優勝者が一人で設計した作品」
というより、
競技案を基礎に、国の建築技術者たちが長期間かけて完成させた国家建築
なのである。
1920年、ようやく本格工事が始まる
長い議論の末、現在の国会議事堂は、
1920年1月
に着工した。
設計・建築を担ったのは大蔵省の臨時議院建築局。
矢橋賢吉を中心に、
吉武東里
大熊喜邦
など、当時の日本を代表する官庁建築の技術者が参加した。 国立国会図書館
しかし、ここからさらに17年近い工事が始まる。
なぜ完成まで17年もかかったのか?
現在なら巨大な超高層ビルでも数年で完成する。
3階建てを基本とする国会議事堂に17年と聞くと、
「なぜそこまで時間がかかったのか」
と思うだろう。
単に工事が遅かったわけではない。
その17年間に、日本は巨大災害や社会変化を経験している。
最大の出来事の一つが、
1923年の関東大震災
である。
関東大震災で設計図や模型まで失われた
国会議事堂は建設中に関東大震災を経験した。
建設途中の議事堂そのものには大きな被害はなかった。
しかし工事を管理していた大蔵省が火災で全焼。
そこに保管されていた、
重要な設計図や模型
などが失われてしまった。 国立国会図書館
さらに、議事堂建設に使う鉄材を積んだ船が津波によって沈没。
鉄材を再発注しなければならなくなったことも工事の遅れにつながった。 国立国会図書館
現在なら設計データを複数拠点やクラウドへ保存できる。
しかし1923年である。
原図や模型そのものを失うことは、巨大国家プロジェクトにとって極めて大きな損失だった。
工事中には仮議事堂まで燃えた
関東大震災から2年後の1925年。
今度は当時使われていた第二次仮議事堂が火災で全焼した。
そのため約3か月という短期間で第三次仮議事堂が建設されている。 国立国会図書館
本議事堂の工事を進めながら、
一方では実際の議会を開催する場所も確保しなければならない。
現在の国会議事堂が完成するまでの道のりが簡単ではなかったことが分かる。
1927年にようやく上棟
着工から7年後となる1927年、国会議事堂は上棟を迎えた。
しかし、その直後には建設を指揮してきた技師長の矢橋賢吉が急逝。
以降は大熊喜邦らが中心となって建設を進めた。 国立国会図書館
中央の特徴的なピラミッド部分は外装工事の後半で施工されている。
巨大な中央塔が完成していく姿は、当時の東京でも非常に目立つ存在だったはずである。
完成した中央塔は高さ65.45m
国会議事堂の最大の特徴である中央塔。
高さは、
65.45m
ある。
建物本体の屋上までは約20.91mなので、中央塔だけが大きく上へ突き出した構造である。 衆議院
完成した1936年当時、この中央塔は、
建物として日本一の高さ
を誇った。 参議院
現在では周囲に100m、200m級のビルが建っているため低く感じる。
しかし昭和初期の東京では、永田町の高台に高さ65mの巨大石造風建築が立つ姿は圧倒的だった。
議事堂は、
「白亜の殿堂」
とも称された。 参議院
正面から左が衆議院、右が参議院
現在の国会議事堂を正面から見ると、
左側が衆議院
右側が参議院
である。 衆議院
建設当時は参議院ではなく、
貴族院
だった。
1947年、日本国憲法施行によって帝国議会から現在の国会へ移行し、貴族院に代わって参議院が設置された。
建物の役割は変わっても、左右に二つの議院を配置する基本構成は現在まで受け継がれている。
左右の議場はほぼ同じ大きさ
衆議院議場と参議院議場の面積は、いずれも約、
743.81㎡
である。 衆議院
建物を左右対称に造ることによって、
中央に国家的な儀礼空間、
左右に二つの議院
という構成が明確に表現されている。
建築そのものが、日本の議会制度を形にしているのである。
中央玄関は普段ほとんど使われない
テレビなどでよく見る正面中央の巨大な玄関。
実は普段は閉まっている。
衆議院によれば中央玄関が開かれるのは、
国会開会式に天皇陛下を迎えるとき
衆議院総選挙または参議院通常選挙後の国会召集日に議員が登院するとき
外国元首などが訪問するとき
などに限られる。 衆議院
つまり最も立派な入口が、毎日の出入口ではない。
国家的な儀礼のための建築空間
なのである。
中央塔の下には高さ約33mの大空間
中央塔の真下には、
中央広間
がある。
2階から6階部分まで吹き抜けになっており、天井までの高さは、
32.62m。
参議院は、その高さについて、
「法隆寺の五重塔がちょうど入る高さ」
と説明している。 参議院
天井や窓にはステンドグラス。
床には石のモザイク。
柱や壁には装飾石材が使われている。
外観だけでなく、内部まで国家を代表する建築として造り込まれている。
国会議事堂には日本中の石が集められた
国会議事堂の建築で特に注目したいのが、
石材
である。
外装には3種類の花こう岩。
内部装飾には、
大理石33種類
蛇紋岩2種類
珊瑚石灰岩
橄欖岩
日華石
など、多種多様な石材が使用された。
しかもこれらは日本全国から集められた。 参議院
国会議事堂は、
「日本の石の博物館」
とも呼べる建物なのである。
外壁も国産の花崗岩
国立国会図書館によれば、外壁には山口県の黒髪島や広島県の倉橋島などから採れた花崗岩が使用された。 国立国会図書館
建設にあたっては、できるだけ日本国内の材料を使う方針が採られていた。
これは単なるコストの問題だけではない。
近代国家として成長していた日本にとって、
「日本の材料と日本の技術で国家を代表する建築を造る」
ことにも大きな意味があったと考えられる。
ほぼ国産だが、外国製品も3つあった
議事堂は当初、すべてを国産品で建設する方針だった。
しかし実際には、
ドアノブ
郵便投函筒
中央広間のステンドグラス
については外国製品が使用された。 国立国会図書館
逆にいえば、それ以外の多くを日本国内で調達できるまで、当時の日本の建築・工業技術が成長していたことになる。
第2回で紹介した造幣局が誕生した明治初期には、西洋の機械や技術者に大きく依存していた。
それから約60年。
国会議事堂では、国家を代表する巨大建築を国内技術中心で造れるまでになっていたのである。
中央広間の床には約100万個のモザイク
中央広間の床も非常に手が込んでいる。
10種類以上の大理石を使ったモザイクが敷き詰められ、その数は約、
100万個
にもなる。 参議院
さらに柱や壁には沖縄県産の珊瑚石灰岩が使われている。
この石をよく見ると、
巻き貝などの化石
を見ることができる。 参議院
政治ニュースでは気付きにくいが、国会議事堂は内部まで非常に豪華な建築なのである。
中央広間に銅像は「3体」しかない
中央広間には、
伊藤博文
大隈重信
板垣退助
の銅像が置かれている。
ところが台座は4つある。
一つだけ空いているのである。 参議院
4人目を選べず将来に持ち越されたという説や、
「政治に完成はないことを表している」
という説が知られている。
国会議事堂のなかでも有名な建築トリビアの一つである。
天皇の「御休所」は議事堂でも特に豪華
中央広間から階段を上がった場所には、
御休所
がある。
国会開会式の日、天皇陛下が利用する部屋である。
室内には、
本檜
本漆
金メッキ金具
寄木床
絹緞通
刺繍布
大理石
螺鈿
など、当時最高水準の材料と工芸技術が集められている。 参議院
国会議事堂は単なる会議用オフィスではない。
政治だけでなく、国家的な式典を行う「儀礼建築」でもあることが分かる。
建物の規模はどのくらい?
国会議事堂の数字をまとめると、その巨大さが分かる。
| 項目 | 規模 |
|---|---|
| 敷地面積 | 約103,007㎡ |
| 建築面積 | 約13,356㎡ |
| 延床面積 | 約53,464㎡ |
| 正面の長さ | 約206.36m |
| 奥行 | 約88.63m |
| 中央塔高さ | 65.45m |
| 建築期間 | 約17年 |
| 工事延べ人数 | 約254万人 |
| 当時の建築費 | 約2,570万円 |
いずれも衆議院・参議院が公表する数字である。 衆議院
正面だけで200mを超える。
東京駅丸の内駅舎の約335mほどではないものの、一つの建築物としては非常に巨大である。
1936年、ついに完成
1920年に始まった建設工事は、
1936年11月
ついに完成した。
そして同年12月に召集された、
第70回帝国議会
から使用が始まった。 衆議院
着工から約17年。
最初に永田町への議事堂建設が構想された1880年代までさかのぼれば、
約半世紀をかけて実現した国家プロジェクト
だったことになる。
完成した1936年は「二・二六事件」の年だった
国会議事堂が完成した1936年は、日本史上でも大きな出来事が起きた年である。
同年2月、
二・二六事件
が発生した。
国立国会図書館によれば、完成を目前にしていた議事堂も事件の際に占拠されたが、建物そのものには大きな被害はなかった。 国立国会図書館
議事堂は完成当初から、日本の激動する政治史の舞台となったのである。
帝国議会から現在の国会へ
完成時、この建物は、
帝国議会議事堂
だった。
向かって左が衆議院。
右が貴族院。
その後、第二次世界大戦を経て1947年に日本国憲法が施行される。
帝国議会は、
国会
となり、
貴族院は、
参議院
へ変わった。
しかし建物自体はそのまま使用され続けた。 国立国会図書館
政治制度が大きく変わっても、議事堂は同じ場所でその変化を見続けてきたのである。
なぜ国会議事堂は建て替えられないのか?
1936年完成なので、2026年で築90年になる。
一般のオフィスビルなら、すでに建て替えを検討していても不思議ではない。
しかも土地は東京・永田町という一等地である。
効率だけを考えれば、もっと高層化することもできるだろう。
しかし国会議事堂は単なるオフィスではない。
建物そのものが、
日本の議会政治
昭和史
戦後民主主義
永田町の景観
を象徴する存在になっている。
これは第1回の東京駅、第4回の日本銀行にも共通している。
築年数が増えることで価値が失われる建物もあれば、歴史が積み重なることで価値が増す建物もある。
「低い建物」が街の中心になることもある
現在の東京では高さ200mを超える超高層ビルも珍しくない。
国会議事堂の中央塔は65.45mしかない。
それでも永田町周辺で国会議事堂の存在感は非常に大きい。
これは建物の価値が、
高さ
延床面積
容積率
だけでは決まらないことを示している。
建物には、
象徴性
という価値もある。
国会議事堂の場合、
「あの建物があるから永田町だと分かる」
ほど、建築と場所のイメージが一体化している。
不動産や都市形成を考えるうえでも興味深い事例である。
国会議事堂が永田町という街をつくった
現在、
「永田町」
という言葉は、単なる地名以上の意味を持っている。
ニュースで、
「永田町では――」
と言えば、日本の政治の世界を意味する。
これは国会議事堂を中心に、
官庁
議員会館
政党本部
首相官邸
関連施設
が長期間集積した結果である。
巨大な公共建築が立地すると、周囲の土地利用も変化する。
第2回の造幣局が大阪の近代工業化を象徴したように、
国会議事堂は、
永田町を日本の政治都市へ変えた建築
ともいえる。
まとめ
現在の国会議事堂は、
1920年1月に着工し、1936年11月に完成した。
建築期間は約17年。
延べ約254万人が工事に携わり、当時の建築費は約2,570万円だった。 衆議院
完成まで時間がかかった背景には、
長期間に及んだ設計論争
設計競技と設計変更
1923年の関東大震災
設計図・模型の焼失
建築用鉄材を積んだ船の沈没
巨大な石造風建築を国内技術で完成させる難しさ
などがあった。 国立国会図書館
そして完成した議事堂は、
高さ65.45mの中央塔
左右対称の衆議院・参議院
日本全国から集めた大量の石材
約100万個の大理石モザイク
巨大な中央広間
など、当時の日本建築技術を集めた国家プロジェクトとなった。 参議院
さらに、建設資材の大部分を国産でそろえたことも重要である。
明治初期には西洋から技術を学んでいた日本が、昭和初期には、
自国の材料と技術者によって国家を代表する巨大建築を造る
までになった。
国会議事堂が「日本をつくった名建築」といえる理由は、政治家が集まる場所だからだけではない。
その建物自体が、
近代国家をつくろうとした日本の約半世紀にわたる試行錯誤と、当時の建築・工業技術の到達点を形にしたものだからである。
そして完成から90年を迎える現在も、日本の政治の中心として同じ場所で使われ続けている。
次回は、
【日本をつくった名建築 第6回】日本橋の上になぜ高速道路がある?首都高速と東京の街づくり
をテーマに、日本橋の歴史、1964年東京オリンピックを前に急ピッチで進められた首都高速整備、川の上に高速道路を造った理由、そして現在進む日本橋区間の地下化まで掘り下げる。


