東京の街を象徴する建築物といえば、東京タワーを思い浮かべる人は多いだろう。
高さは、
333m。
現在では高さ634mの東京スカイツリーがあるため、それほど驚かない数字に感じるかもしれない。
しかし東京タワーが完成したのは、
1958年。
まだ新幹線も開通していない。
東京オリンピックも開催されていない。
もちろん現在のようなコンピューターによる高度な構造解析も一般化していない時代である。
その日本が、パリのエッフェル塔を超える巨大な鉄塔を、わずか約1年半で完成させた。
完成当時、東京タワーは世界最高の自立式鉄塔だった。文化庁も、東京タワーを「戦後日本の復興の象徴」「高度経済成長の原点」と位置付けている。
では、なぜ333mもの塔が必要だったのか。
そして大型重機やコンピューターが現在ほど発達していない昭和30年代に、どうやってこれほど巨大な鉄塔を造ったのだろうか。
東京タワーは最初から「観光名所」として造られたわけではない
現在の東京タワーには展望台があり、ライトアップされ、年間を通して多くの観光客が訪れる。
しかし、そもそもの目的は観光ではない。
東京タワーは、
巨大な総合電波塔
として計画された。
1950年代、日本ではテレビ放送が急速に普及し始めていた。
当時は各テレビ局がそれぞれ別の場所に電波塔やアンテナを持っていたため、局によって送信方向が異なっていた。
視聴者側では、受信する放送局によってアンテナの向きを調整しなければならないという問題もあった。
そこで、
「各テレビ局の電波を一つの高い塔から送れないか」
という構想が生まれたのである。
複数の電波塔を東京各地に建設するより、一つの巨大な電波塔にまとめる。
これが東京タワー建設の出発点だった。
なぜ高さは「333m」なのか?
東京タワーについて最も有名な数字が、
333m
である。
1958年は昭和33年。
そのため、
「昭和33年に造ったから333mにしたのでは?」
と思われることもある。
しかし東京タワー公式サイトは、
昭和33年と333mは偶然の一致
としている。
高さを検討する際、電波の専門家による検討が行われた。
東京地区のVHFテレビ7局以上、さらに将来開局すると考えられていたUHFテレビ局が、東京を中心として関東一円へ電波を届けるために必要な高さを計算した結果、
333m
という高さが導き出されたという。
想定されていたサービスエリアは、
北は水戸
東は銚子
南は沼津
西は甲府
という非常に広い範囲だった。
つまり333mには、
「東京から広い地域へテレビ電波を届ける」
という明確な機能上の理由があったのである。
「どうせ造るならエッフェル塔を超えたい」
ただし、333mには機能だけでは説明できないもう一つの背景もあった。
東京タワー建設を推進したのが、
前田久吉
である。
東京タワー公式サイトによると、前田には、
「どうせ造るならエッフェル塔を超えるものを」
という思いがあったという。
当時の世界的な鉄塔といえば、パリのエッフェル塔だった。
1889年に建設されたエッフェル塔を超える鉄塔を、戦争に敗れてから十数年しか経っていない日本が建設する。
それは単なる放送施設の建設以上の意味を持っていた。
「日本はここまで復興した」
という象徴にもなったのである。
設計したのは「塔博士」内藤多仲
これほど巨大な鉄塔の設計を任されたのが、
内藤多仲(ないとう・たちゅう)
である。
内藤は日本を代表する建築構造学者で、
「耐震設計の父」
「塔博士」
とも呼ばれた人物である。
東京タワー以前にも、
名古屋テレビ塔
2代目通天閣
別府タワー
さっぽろテレビ塔
など、多くの塔の設計に携わっていた。
東京タワーについては、内藤多仲の設計指導のもと、日建設計工務、現在の日建設計が基本設計・実施設計・設計監理を担った。
つまり東京タワーは、それまで国内で積み重ねられてきた鉄塔設計技術の集大成でもあったのである。
高さ333mでも、鉄骨は約4,000トン
東京タワーの外観を見ると、
「これだけ巨大なら、とてつもない量の鉄を使っているのでは?」
と思うだろう。
ところが東京タワーは非常に軽い。
竹中工務店によると、地上約253mまでの自立鉄塔部分で使用された鉄骨は約3,600トン。
その上に設けられた約80mのアンテナ支持塔は約80トンである。
東京タワー公式資料では、全体の重さをおよそ、
4,000トン
としている。
333mもの高さがあるにもかかわらず、使用鋼材は驚くほど少ない。
エッフェル塔より高いのに鉄が少ない
ここが東京タワーの技術的に面白いところである。
日建設計によれば、エッフェル塔では約7,000トンの鉄材が使用されたのに対して、東京タワーでは約4,000トンだった。
東京タワーの方が高いにもかかわらず、
使用された鉄の量は大幅に少ない。
時代が約70年違うため、
鋼材そのものの性能
構造解析技術
鉄骨加工技術
設計の合理化
が進歩していたからである。
積水ハウスも、エッフェル塔と東京タワーは基本的に同じ鉄骨構造の考え方を持ちながら、材料が錬鉄から軟鋼へ進歩したことなどによって、東京タワーでは使用材重量を大幅に減らせたと説明している。
「高さを上げるなら鉄を増やせばいい」
という単純な話ではない。
必要な強度を確保しながら、いかに軽く造るか。
これが超高層構造物の重要な技術なのである。
4本の脚で333mを支える
東京タワーを足元から見ると、その巨大さがよく分かる。
文化庁によれば、塔脚間は約、
80m
ある。
4本の巨大な脚が外側へ大きく広がりながら、上へ行くほど細くなっていく。
この形には理由がある。
高い塔にとって最大の敵になるのは、
風
と
地震
である。
高さ333mの構造物に強風が当たれば、塔の上部には非常に大きな力が加わる。
下部を広げ、上部を軽くすることで、巨大な塔を安定して支えているのである。
東京タワーは「揺れない」のではなく「揺れて耐える」
東京タワーの地震対策も興味深い。
巨大な鉄塔だから、
「びくともしないほど硬く造られている」
と思うかもしれない。
実際には逆である。
東京タワー公式サイトによれば、地震の多い日本に合わせて、
適度にしなりながら揺れ、時間をかけて力を吸収する構造
になっている。
完全に動かないように造れば、地震や強風によって発生した巨大な力が構造部材へ集中してしまう。
そこで鉄骨構造の柔軟性を利用して、
揺れることでエネルギーを逃がす
のである。
これは現在の超高層建築にも通じる考え方である。
地下には巨大な基礎がある
空へ伸びている鉄骨ばかりに目が向くが、本当に重要なのは地下である。
東京タワー公式サイトによると、現在の塔脚基礎には1脚あたり10本の深礎脚柱があり、直径は約2m。
東京湾の海面水位に相当する地下約20mまで達している。
さらに4本の脚は地下で鋼棒によって結び付けられている。
つまり目に見える333mの塔だけではなく、
地下まで含めて一つの巨大構造物
なのである。
高層建築では、
「上へどれだけ高く伸ばすか」
と同じくらい、
「その力を地盤へどう伝えるか」
が重要になる。
風速約90mにも耐える設計
東京タワー公式サイトでは、塔体について、
風速約90mに耐える
設計としている。
1959年の伊勢湾台風では、最大で約90cm揺れた記録がある。
90cmと聞くと、
「危ないのでは?」
と思うかもしれない。
しかし高い塔では、ある程度しなって動くこと自体が正常である。
重要なのは、
揺れても壊れないこと
である。
東京タワーの美しい曲線はデザインだけではなく、巨大な風圧や地震力に耐えるための構造でもある。
コンピューターが普及する前に設計された
さらに驚くのが設計された時代だ。
竹中工務店は、
「コンピューターが普及していなかった時代に設計された」
ことを東京タワーの特徴として挙げている。
その後、安全性の再検討を重ねた結果、現在の設計基準に照らしても十分な強度が確認されているという。
現在ならコンピューター上で、
風
地震
部材応力
変形
などを大量に計算できる。
1950年代は、そのような環境がないなかで巨大な鉄塔を設計しなければならなかった。
東京タワーが「昭和の建築技術の象徴」といわれる理由の一つである。
しかも工期はわずか約1年半
東京タワーの建設が始まったのは、
1957年6月。
完成したのは、
1958年12月。
竹中工務店によれば、工期はわずか、
約1年半
だった。
現在でも333m級の巨大構造物を1年半で完成させると考えれば、かなり短い。
まして1950年代である。
東京タワー公式資料でも、「たったの1年半でつくられた」と紹介されている。
鉄骨を一本ずつ空へ積み上げた
東京タワーは鉄骨を組み合わせて造られている。
鉄骨を工場で製作し、
建設現場へ運び、
吊り上げ、
所定の位置へ据え付け、
接合する。
これを繰り返して少しずつ高度を上げていった。
宮地エンジニアリングが公開する施工記録には、
40m
54m
88m
120m
170m
223m
そして333m
と、塔体が段階的に伸びていく建設過程が残されている。
現在のように地上で巨大なユニットを完成させ、一気に持ち上げるだけではない。
文字通り、
鉄骨を空へ積み重ねていった
のである。
鉄骨をつないだ「リベット」
当時の鉄骨建築では、現在のような高力ボルトや溶接だけではなく、
リベット接合
が広く使われていた。
リベットとは、熱した鋼製の鋲を鉄骨の穴へ入れ、反対側を叩いてつぶし、鉄骨同士を固定する方法である。
東京タワーの建設でも、高温に熱したリベットを使う接合作業が行われた。
高所まで鉄骨を組み立て、部材同士を正確に合わせ、接合していく。
設計技術だけではなく、
現場の鳶職人や鉄骨工の技術
がなければ333mには到達できなかったのである。
高さ333mの工事を「人」が完成させた
東京タワーの建設写真を見ると、現在の工事現場との違いに驚く。
もちろんクレーンなどの機械は使われていた。
しかし最終的に鉄骨上へ上がり、
位置を調整し、
部材を固定するのは人間である。
地上200m、300mという高さで鉄骨を組み立てる。
1950年代の日本でこの工事を進めたこと自体が、非常に大きな挑戦だった。
東京タワーを見上げるときは、
「巨大な鉄の塔」
ではなく、
一本一本の鉄骨を人間が組み上げた建築物
と考えると、その見え方は大きく変わる。
なぜ東京タワーは赤と白なのか?
東京タワーのもう一つの特徴が、
赤と白のカラーリングである。
実は正式には「赤」ではない。
東京タワー公式サイトによると、
インターナショナルオレンジ
と
白
である。
航空機から高い構造物を視認しやすくするため、航空法に基づいて塗り分けられている。
つまり、あの色にも機能的な理由がある。
9万4,000㎡を人の手で塗る
さらに驚くのが塗装のメンテナンスである。
東京タワーの総塗装面積は、
約94,000㎡。
使用する塗料は約、
34,000リットル
に達する。
現在でも外装補修はほぼ7年に一度程度行われ、最上部のアンテナを除く塔体には足場を組み、
下塗り
中塗り
上塗り
を行う。
しかも東京タワー公式サイトによれば、
すべてハケを使った人の手による塗装
である。
1958年に完成させる技術だけでなく、
70年近く使い続ける維持管理技術
も東京タワーを支えている。
造ったら終わりではない
超高層構造物は、完成した瞬間がゴールではない。
雨
風
地震
温度変化
錆
設備の老朽化
といった問題に何十年も対応しなければならない。
東京タワーでは、その後も耐震補強や設備改修が繰り返されてきた。
竹中工務店によれば、地上デジタル放送対応に伴う荷重増加に対応するため、
制振ダンパーの新設
鋼板補強
杭の増設
なども実施されている。
外観は1958年の東京タワー。
しかし中身は、時代に合わせて更新され続けているのである。
東京タワーは国の登録有形文化財になった
東京タワーは2013年、
国の登録有形文化財
となった。
文化庁は、
高さ333m
脚間80m
展望室付きの鉄骨造
という特徴を記録するとともに、
「国土の歴史的景観に寄与しているもの」
として登録している。
完成から半世紀を超えた東京タワーは、
「昔の電波塔」
ではなく、
日本の近代史を伝える建築資産
になったのである。
東京スカイツリーができても東京タワーは残った
2012年には、
東京スカイツリー
が完成した。
高さは634m。
東京タワーのほぼ2倍である。
東京都心に200m級の超高層ビルが増えたことで、電波が建物に遮られる可能性が高まり、より高い場所からデジタル放送を送信する必要が生まれたことがスカイツリー建設の背景にある。
2013年には在京テレビ局の本放送送信も東京スカイツリーへ移っていった。
では東京タワーは不要になったのだろうか。
そうはならなかった。
東京タワーとスカイツリーを数字で比べる
二つの塔を比べると、約半世紀の建設技術の変化がよく分かる。
| 東京タワー | 東京スカイツリー | |
|---|---|---|
| 完成 | 1958年 | 2012年 |
| 高さ | 333m | 634m |
| 鉄骨重量等 | 約4,000t | 約36,000t |
| 主な役割 | 総合電波塔・観光 | 電波塔・観光 |
| 建設期間 | 約1年半 | 1,325日 |
| 主な展望高さ | 150m・250m | 350m・450m |
※構造・設備・展望施設の規模が大きく異なるため、重量などは単純比較できない。東京スカイツリーの鉄骨総重量約36,000トンには展望台も含まれる。
スカイツリーは東京タワーを単純に大きくしたものではない。
建設目的も構造も、時代背景も異なる。
しかし二つに共通しているのは、
その時代の日本が持っていた建設技術の限界へ挑戦した
ということである。
1958年の333mは、2012年の634mとは違う意味を持つ
技術は常に前の世代から積み重なっていく。
1958年に333mへ挑戦した経験。
鉄骨を設計した技術。
地震と風に耐えるための考え方。
巨大電波塔を施工した現場技術。
長期間維持管理するノウハウ。
こうした蓄積の先に、より巨大な建築や東京スカイツリーのような構造物がある。
東京タワーは単なる昭和レトロな観光施設ではない。
日本の超高層建築技術が一つの大きな段階へ進んだ建造物
と見ることができる。
東京タワーが「高度経済成長の象徴」になった理由
東京タワーが完成した1958年、日本は戦後復興から本格的な経済成長へ進もうとしていた。
家庭にはテレビが普及し、
道路が造られ、
都市が拡大し、
やがて新幹線や高速道路が整備されていく。
その東京の空に、
世界一高い鉄塔
が現れた。
文化庁は東京タワーについて、
「日本の技術力を世界に示し、高度経済成長期の幕開けを告げた戦後東京のシンボル」
と評価している。
これは非常に象徴的である。
「これから日本はもっと豊かになる」
「技術で世界に追いつける」
という時代の期待が、333mという高さで目に見える形になったのである。
1959年には年間約520万人が訪れた
東京タワーは電波塔だけでなく、観光施設としても大成功した。
公式サイトによると、1959年には年間約、
520万人
が来塔している。
完成翌年である。
東京タワーへ上り、成長していく東京の街を上から眺める。
当時の人々にとって、それ自体が「未来を見る体験」だったのかもしれない。
電波塔から「東京というブランド」へ
東京スカイツリーへ放送の中心が移った後も、東京タワーは取り壊されなかった。
むしろ、
展望施設
ライトアップ
イベント
観光
文化財
という新しい役割が強くなっている。
つまり東京タワーの価値は、
「電波を送れるから価値がある」
という段階から、
「そこに東京タワーが存在すること自体に価値がある」
という段階へ変わったのである。
不動産や建築の価値を考えるうえでも興味深い。
建物の機能が古くなったとしても、
歴史
デザイン
知名度
景観
地域の記憶
を持つ建築は、新しい価値を生み出すことがある。
東京タワーがない東京を想像できるか?
仮に東京タワーの電波塔としての役割が小さくなった時点で、
「もう必要ないから解体しよう」
となっていたらどうだろうか。
港区の景観は大きく変わっていたはずである。
映画やドラマの東京の風景。
夜景。
芝公園や増上寺から見上げる景色。
それらの価値も失われる。
建築は、用途だけで価値が決まるものではない。
長い年月を経ることで、
建物そのものが都市の価値になる
ことがある。
東京タワーは、その代表例なのである。
まとめ
東京タワーは1958年に完成した、高さ333mの総合電波塔である。
その高さは単なる語呂合わせではなく、関東一円へテレビ電波を届けるために検討された結果だった。
一方で、創業者・前田久吉には、
エッフェル塔を超えるものを造りたい
という思いもあった。
設計を指導したのは、
「耐震設計の父」
「塔博士」
と呼ばれた内藤多仲。
東京タワーでは約4,000トンの鉄骨を合理的に組み合わせ、地震や強風に耐える柔軟な構造を実現した。
そして驚くべきことに、
1957年6月から1958年12月まで、わずか約1年半
で完成させている。
大型の鉄骨を空へ持ち上げ、
職人が高所で組み立て、
接合し、
333mまで積み上げていった。
現在の超高層建築技術につながる日本の構造設計と施工技術が、この塔には詰まっている。
完成当時は世界最高の自立式鉄塔。
その後、日本はさらに発展し、2012年には高さ634mの東京スカイツリーを完成させた。
しかし東京タワーは役目を終えていない。
電波塔としての役割が変化しても、
観光施設
文化財
都市景観
そして東京の象徴
として使われ続けている。
東京タワーが日本をつくった名建築と呼べる理由は、単に333mという高さにあるのではない。
戦後の日本が「もう一度世界に追いつく」と挑戦した技術と時代そのものが、333mの鉄骨の中に残されているからである。
次回は、
【日本をつくった名建築 第4回】日本銀行本店はなぜ「円」の形に見える?明治の金融建築を読み解く
をテーマに、日本の中央銀行がなぜ日本橋に建てられ、なぜあれほど重厚な建築になったのかを、辰野金吾と近代金融の歴史から掘り下げる。
引用元・参考元
- 株式会社TOKYO TOWER「Towerpedia」
- 株式会社TOKYO TOWER「東京タワーがみつめた60年」
- 文化庁「東京タワー―昭和の文化財」
- 文化庁「国指定文化財等データベース 東京タワー」
- 国立公文書館「テレビ放送の開始と東京タワー」
- 竹中工務店「東京タワー―半世紀にわたる維持保全」
- 日建設計「日本電波塔 東京タワー」
- 日建設計「プロジェクトヒストリー」
- 東京スカイツリー公式サイト「東京スカイツリーのスペック・歴史」


