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【日本をつくった名建築 第2回】造幣局はなぜ大阪にある?明治政府がつくった近代産業の巨大拠点

2026/10/10
不動産投資コラム

大阪の春の風物詩として全国的に知られる「桜の通り抜け」。

毎年、造幣局の敷地内にある桜並木が一般公開され、多くの人が訪れる。

そのため、

「造幣局=桜の名所」

という印象を持っている人も多いかもしれない。

しかし、そもそも造幣局は何のためにつくられた施設なのだろうか。

そしてもう一つ、不思議な点がある。

現在の日本の首都は東京である。

中央省庁も東京に集中している。

にもかかわらず、日本の貨幣を製造する造幣局の本局は、

大阪市北区天満

にある。

実はこの場所は、明治維新直後の日本が国家として近代化していくうえで極めて重要な場所だった。

造幣局は単なる「硬貨工場」ではない。

蒸気機関、ガス灯、化学工業、西洋建築など、当時最先端だった技術を一か所へ集めた巨大な近代産業拠点だったのである。

今回は、なぜ造幣局が大阪につくられたのか、そして造幣局が大阪と日本の近代化にどのような影響を与えたのかを見ていく。

明治維新直後、日本のお金は大混乱していた

1868年、江戸幕府が終わり、明治政府が誕生した。

しかし、新政府が引き継いだのは統一された貨幣制度ではなかった。

当時の日本では、

幕府が発行した貨幣

各藩が発行していた藩札

新政府の太政官札

金貨・銀貨

など、さまざまなお金が流通していた。

さらに社会の混乱に伴って紙幣が増発され、偽造貨幣なども横行していた。

造幣局自身も、当時の通貨制度について**「混乱を極めていた」**と説明している。財務省

近代国家をつくるためには、

税を集める

給料を支払う

貿易をする

商品を売買する

といった経済活動に共通して使える貨幣が必要である。

そこで明治政府が急いだのが、

全国統一の近代的な貨幣制度

だった。

「円」が生まれたのもこの時代

1871年、明治政府は「新貨条例」を制定した。

ここで貨幣単位として、

円
銭
厘

が定められた。

1円=100銭、1銭=10厘という十進法も採用された。

さらに当初は1円の価値を純金1.5グラムと定める金本位制を基本とした制度がつくられた。財務省

現在では当たり前のように使っている「円」という単位は、この時代につくられたのである。

そして、その新しい貨幣を実際に大量生産するための工場として建設されたのが、

造幣局

だった。

では、なぜ東京ではなく大阪なのか?

ここが今回の最大の疑問である。

明治政府の中心が東京へ移っていくなかで、なぜ国家の貨幣を製造する重要施設を大阪につくったのだろうか。

実は、造幣局自身も、

「これが決定的な理由だった」と一つに断定することはできない

としている。

ただし、いくつかの理由が挙げられている。

造幣局によれば、

  1. 王政復古に貢献した大阪財界への配慮
  2. 当時、大阪遷都論があったこと
  3. 当時の江戸の治安が安定していなかったこと
  4. 大阪が「天下の台所」と呼ばれる経済の中心地だったこと

などが背景として考えられている。財務省

そして、建設場所を選ぶうえで明確に重視されたのが、

水運と広い土地

だった。

造幣局が建てられたのは「大川」のほとり

現在の造幣局本局は、大阪市北区天満、大川沿いにある。

1868年8月、この大川右岸にあった旧幕府の御破損奉行役所の材木置場跡など一帯が建設地として選ばれた。

その広さは約、

18万平方メートル

約5万6,000坪にも及んだ。

同年11月には工場建設が始まっている。財務省

当時、大量の原材料や大型機械を運ぶうえで、川は重要な物流インフラだった。

鉄道網もトラックも存在しない時代である。

大川から水運を利用でき、しかも巨大工場を建てられる広大な土地がある。

この立地は、大規模な近代工場をつくるには非常に都合がよかったのである。

建設費96万両という巨大国家プロジェクト

造幣局の建設は、明治政府にとって大事業だった。

造幣局によると総工費は、

96万両

に達した。

1870年8月には近代的な造幣工場がほぼ完成。

1871年2月15日、現在の暦では4月4日に創業式が行われた。

式典には政府高官や各国公使など約100人が出席した。財務省

明治維新から、まだ数年しか経っていない。

にもかかわらず、その大阪には、西洋式機械を導入した巨大な近代工場がすでに誕生していたのである。

当時としては異次元だった造幣局の工場設備

創業当時の造幣局には、当時の日本ではほとんど見ることのできなかった近代設備が並んでいた。

主な設備には、

20馬力の蒸気機関2基

金溶解用コークス炉6基

銀溶解用コークス炉12基

圧延機8台

圧穿機5台

圧縁機2台

イギリス製圧印機6台

フランス製圧印機2台

などがあった。財務省

現在でいえば、

海外から最新の製造装置を大量導入した巨大ハイテク工場

に近い存在だった。

しかも造幣局では、単に完成した金属板へ模様を刻むだけではない。

金や銀を溶かし、

圧延し、

円形に打ち抜き、

縁を加工し、

模様を圧印する。

貨幣を完成させるまでの高度な工業プロセスを一か所で行っていたのである。

造幣局は「貨幣だけ」をつくる工場ではなかった

さらに興味深いのは、造幣局が貨幣製造以外のさまざまなものまで自前で生産していたことである。

当時の日本には、近代的な工場を支える関連産業そのものが十分に育っていなかった。

そのため造幣局では、

硫酸

ソーダ

石炭ガス

コークス

機械器具

なども自ら製造していた。

造幣局の技術水準は当時の日本の一般的な工業水準を大きく上回っており、これらの事業はのちに順次民間へ移されていった。大阪市

つまり造幣局は、

貨幣をつくるために、日本にまだ存在しない産業まで内部につくってしまった

のである。

これが造幣局を単なる「コイン工場」と呼べない理由である。

大阪の人が驚いた「ガス灯」

造幣局が大阪にもたらしたものは工場設備だけではない。

創業時、造幣局構内や周辺の街路には、

屋外用ガス灯65基

が設置された。

さらに工場や宿舎などには、

室内照明621基

が設置された。

合計686基である。財務省

電灯すら一般的でなかった時代である。

ろうそくや行灯が中心だった大阪の人々にとって、ガスによる明るい照明は驚くべき光景だったという。

工場を一つ建てることで、

エネルギー

照明

化学

機械

建築

といった近代技術が一気に都市へ入ってきた。

造幣局は、明治初期の大阪にとって巨大な「技術ショールーム」でもあったのである。

工場そのものも西洋建築だった

造幣局の面白さは、機械だけではない。

建物そのものも当時としては最先端だった。

創業時の施設設計に関わったのが、イギリス人技師、

トーマス・ジェームズ・ウォートルス

である。

造幣局の鋳造所をはじめ、西洋式の建物群が大川沿いに並んだ。

現在、創業当時の工場建築そのものの多くは残っていない。

1928年から1938年にかけて工場や庁舎の大規模な改築が行われ、初期の建物の多くは建て替えられた。財務省

しかし、その一部は現在も残されている。

「泉布観」は造幣局の迎賓館だった

造幣局のすぐ北側にあるのが、

泉布観

である。

1871年、造幣寮の応接所として建てられた。

設計はウォートルス。

煉瓦造を基本とした地上2階建てで、建物の周囲にベランダを巡らせるコロニアル様式が採用されている。

大阪市によると、現存する大阪最古の洋風建築である。大阪市

1872年に明治天皇が訪れた際、

「泉布観」

と命名された。

「泉布」は貨幣、「観」は館を意味する。

つまり名前そのものが、

「貨幣の館」

という意味なのである。

1956年には国の重要文化財に指定された。大阪市

なぜ貨幣工場に豪華な応接所が必要だった?

泉布観を見ると、

「工場の隣になぜこんな立派な建物が必要だったのか」

という疑問も湧く。

造幣局は単なる工場ではなく、

近代国家・日本が海外に示す国家的施設

だったからである。

外国人技術者も働き、政府高官や海外要人も訪れる。

そこで人々を迎えるため、本格的な西洋建築の応接所が必要だった。

建物そのものが、

「日本は西洋と同じ近代国家になろうとしている」

というメッセージでもあったと考えられる。

旧造幣寮鋳造所の玄関も残っている

もう一つ残されている重要な建築が、

旧造幣寮鋳造所正面玄関

である。

現在は旧桜宮公会堂の正面部分として使用されている。

もともとは造幣寮の鋳造所の玄関だったもので、工場建て替え時に解体・保存され、1935年に現在の場所へ移された。

正面には石造の円柱と三角形のペディメントが配置され、古典主義建築の強い印象を残している。

この玄関部分も泉布観とともに国の重要文化財に指定されている。大阪市

工場でありながら、入口には国家施設らしい威厳を持たせていたのである。

現在の造幣博物館も元は工場施設

現在、造幣局の歴史を紹介している「造幣博物館」も興味深い建築である。

この建物は最初から博物館として建てられたわけではない。

1911年、

火力発電所

として建設された。

それまで工場を支えていた蒸気動力から、より効率的な電力利用へ移行するためにつくられた施設だった。

その後、変電設備などとして使われ、1969年から造幣博物館として活用されている。

現在の造幣局構内に残る唯一の明治時代の建物である。財務省

つまり造幣局では、

蒸気機関
↓
火力発電
↓
電気

という産業技術の変化まで、建物そのものから読み取ることができる。

「建物を残して用途を変える」という考え方

1911年の火力発電所は、発電所としての役割を終えた。

通常であれば取り壊されても不思議ではない。

しかし造幣局では保存され、

造幣博物館

として再利用された。

現代の不動産用語でいえば、

コンバージョン

に近い考え方である。

用途を終えた古い建物を壊して新築するのではなく、

建物の価値を残しながら、新しい用途を与える。

東京駅の保存・復原とは方法が異なるが、

歴史的建築を現代でも使い続ける

という点では共通している。

そして1883年、「桜の通り抜け」が始まった

現在の造幣局を最も有名にしているのが桜である。

造幣局の「桜の通り抜け」は、

1883年

に始まった。

当時の造幣局長・遠藤謹助の発案によって、構内にあった桜を一般の人にも楽しんでもらおうと開放したのが始まりである。財務省

大川沿いの通路を、

入口から入り、

造幣局構内を歩き、

反対側の門から出る。

文字どおり施設を**「通り抜ける」**ことから、この名前が定着した。財務省

それから140年以上。

国家の工業施設だった場所が、大阪を代表する春の観光名所にもなったのである。

桜も実は「都市の歴史」の一部だった

造幣局の桜は、最初から観光目的で植えられたものではない。

大阪市によると、明治初期に付近にあった旧津藩藤堂家の蔵屋敷の桜が、造幣寮の敷地へ移植されたものが起源とされる。大阪市

つまり桜も、

江戸時代の大名屋敷

から、

明治の近代工場

へと土地の使われ方が変化するなかで受け継がれたものだった。

現在では造幣局だけでなく、大川沿いの毛馬桜之宮公園まで桜の景観が広がっている。

大阪市も、造幣局や泉布観などの明治建築と大川沿いの桜が、地域を代表する都市景観を形成していると評価している。大阪市

造幣局は大阪の「工業都市化」の出発点の一つだった

造幣局が大阪へ与えた影響は、貨幣製造だけではなかった。

西洋式工場

蒸気機関

金属加工

化学技術

ガス灯

発電設備

西洋建築

外国人技術者

といった、新しい技術と文化が集中した。

大阪市も、泉布観や旧造幣寮鋳造所などについて、

大阪の近代化の始まりを象徴する建築

と位置付けている。大阪市

後に大阪は、

「東洋のマンチェスター」

とも呼ばれる日本有数の工業都市へ発展していく。

造幣局は、その後の大阪産業発展に直接すべてを生み出したわけではないが、明治初期に最先端の工業技術を集積した施設として、近代大阪の先駆的な存在だったといえる。

「巨大施設」が街を変える

不動産・都市開発という観点から見ると、造幣局にはもう一つ重要な特徴がある。

都市に巨大な施設ができると、その周辺にも変化が起こる。

働く人が集まり、

道路が整備され、

物流が生まれ、

住宅が必要になり、

商業が発達する。

さらに造幣局の場合には、桜や歴史建築が後世に残ったことで、

工業施設だった場所が都市景観・文化・観光資源へと変化した。

土地の価値は、建物を建てた瞬間だけで決まるものではない。

その施設が長い時間をかけて街とどのような関係を築くかによっても変わっていく。

造幣局は、そのことがよく分かる場所である。

造幣局は今も大阪にある

明治政府の施設の多くが東京へ集中していくなかでも、造幣局本局は現在も大阪に置かれている。

その後、東京出張所や広島支局なども設けられた。

現在の東京側の拠点は、さいたま市にある「さいたま支局」となっている。財務省

しかし、本局は150年以上経った現在も、

大阪市北区天満

である。

大川沿いの造幣局は、明治維新直後に誕生した国家プロジェクトが、その場所で現在まで受け継がれている珍しい例なのである。

「古い工場」を残す意味

東京駅のような壮麗な駅舎と比べると、工場建築は保存されにくい。

工場は、

生産方法が変わる

設備が大型化する

耐震性能が不足する

生産効率を改善する

といった理由から建て替えられやすいからである。

実際、造幣局でも創業期の工場の多くは建て替えられた。

しかし、

泉布観

旧造幣寮鋳造所正面玄関

造幣局旧正門

1911年の旧火力発電所

などが残されたことで、私たちは現在でも明治期の近代化を「建物」として見ることができる。

これは単に古い建築を保存するという話ではない。

その土地で何が起き、日本の社会がどのように変化したのかを残す

という意味がある。

まとめ

造幣局は1871年、大阪で創業した。

建設場所として選ばれたのは、大川沿いの約18万平方メートルにも及ぶ広大な土地だった。

なぜ大阪だったのかについて、造幣局は決定的な理由を一つに断定していない。

しかし、

水運を利用できること

広大な土地を確保できること

大阪が経済の中心だったこと

大阪財界への配慮

大阪遷都論

当時の江戸の治安状況

など、複数の要因が背景にあったとされる。財務省

そして造幣局は、単なる貨幣工場ではなかった。

蒸気機関、圧延機、圧印機、ガス灯、化学設備、西洋建築など、当時の日本にとって最先端だった技術が集まった巨大な近代工場だった。

1871年には新貨条例によって「円」が定められ、その新しい貨幣制度を実際のモノとして支えたのが大阪の造幣局だった。財務省

さらに造幣局の周辺には、

泉布観

旧造幣寮鋳造所正面玄関

造幣博物館

旧正門

など、近代大阪の歴史を伝える建築が現在も残っている。

そして1883年に始まった「桜の通り抜け」は、今では大阪を代表する春の風物詩となった。財務省

現在、多くの人が桜を見るために歩いている場所は、

150年以上前、日本が近代国家になるために最新技術を集めてつくった巨大産業拠点

だったのである。

建築を見ると、その街がなぜ発展したのかが見えてくる。

造幣局はまさに、

「建物と産業が都市をつくる」

ということを現在まで伝える名建築群なのである。

次回は、

【日本をつくった名建築 第3回】東京タワーはどうやって333mを造った?昭和の超高層建築技術

をテーマに、1958年の日本がどのようにして高さ333mの巨大鉄塔を完成させたのか、建設技術や高度経済成長との関係まで掘り下げる。

引用元・参考元

  • 造幣局「造幣博物館のご案内・近代造幣局の誕生」 財務省
  • 造幣局「造幣局150年のあゆみ」 財務省
  • 造幣局「桜の通り抜け」関連資料 財務省
  • 造幣局「造幣博物館のあらまし」 財務省
  • 大阪市「重要文化財 泉布観」 大阪市
  • 大阪市「造幣局旧正門・旧造幣寮鋳造所正面玄関・泉布観」 大阪市
  • 大阪市「北区に残る近代建築」 大阪市

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